【学生時代】
4歳から6歳にかけての2年8カ月、商社マンだった亡き父の仕事の都合でニューヨークに住む。帰国して公立小学校2年に編入した最初の通知票は、算数が3であった以外はすべて2(5段階評価)、同級生には「外人」と言われ、国語の教科書を読めば笑われた。「日本人」になるべく勉学に励むかたわら、スポーツ(小学校:ミニバスケ部・陸上部(ハードル)、中学校:駅伝部)、読書、ピアノに明け暮れる。
第一志望の県立高校に合格し、「日本人になれた」と思うようになる。ハンドボール部、JRC(Junior Red Cross)部に所属した。高校2年のときに本多勝一氏の本を読み、ジャーナリストに興味をもつが体力的に自信がなく、編集者なら激務とは言われるが女性が活躍しているので大丈夫かもしれないと志すようになる。
「日本をもっと知るために中国文化を学びたい」と大学に進学する。基礎スキー、ユースホステリングのサークル活動に力を入れながら、ファストフード店、ガソリンスタンドでの添加剤の販売、塾講師、家庭教師のアルバイトを経験した。アルバイト先の塾長から「あなたは日本人ではない」と断言され、「日本人になろうとするのをあきらめる」。卒業論文は『日本と中国の国語教科書の比較研究』。

【社会人時代】<退職後に書き換え予定、随時加筆予定>
出版社に入社、編集部15年(広報誌の編集)、報道部16年目(週刊誌の編集部の庶務)。
●編集部時代
広報誌を10件~30件担当した。東北の顧客の仕事で、打ち合わせ・取材などで東北に行くうちに仕事を超えたものとなり、東北出身の伴侶を得る。職場の方に勧誘され、会社の走ろう会、社外のスキーサークルに混ぜていただく。
●報道部時代
週刊誌の編集室の庶務を担当している。掲載誌の発送において宛名印刷ソフトを導入するなど積極的に業務改善に取り組む一方で、通信販売の窓口担当(2012年4月~2018年7月)、広報誌の編集業務のお手伝い、書庫の整理などに取り組んだ。現在は週刊誌の編集業務の一部にも携わっている。