ジャン=ジャック・ルソー著、坂倉裕治訳、講談社学術文庫、3月9日に読み始め、3月31日に読了しました。
道徳論者たちがなんといおうと、人間知性は情念に多くを負っており、また、一般に認められているように、情念も人間知性に多くを負っている。両者の活動を通じて、私たちの理性は完成に向けて改善されていくのである。私たちがなにかを知ろうとするのは、もっぱら楽しみたいと望むからである。なにも望むことも嫌うこともない者がわざわざ苦労して推論する理由など、とうてい思いつかない。情念にしても、その起源は私たちの欲求にあり、その進歩は私たちの知識から引き出される。というのも、人間がものを望んだり嫌ったりするのは、そのものについてもちうる観念によるか、自然による素朴な衝動による以外にありえないからである。あらゆる種類の知識を欠いた野生人は、後者に基づいた情念しか経験しない。その欲望は身体的欲求を越え出ることはない。野生人がこの世界に認める幸福といえば、食べ物と、雌と、休息だけである。嫌う不幸といえば、苦痛と空腹だけである。私はここで苦痛といい、死とはいわない。というのも、動物は決して、死とはどういうことなのかを知らないだろうから。動物の境遇から脱して最初に獲得するもののひとつが、死を認識し、死を恐れることだったのである。
農業は、実に多くの労苦と予見能力が必要で、ほかの多くの技芸と関連しており、たとえ萌芽的なものであれ、社会がなければ実践するのは不可能であることがまったく明白である。農業がなくても大地は十分な食料を提供してくれていたのだから、農業が役に立つとしたら、大地から食料を引き出すためではなく、私たちの味覚にこのうえなく合うように、好みのものを大地にむりやりつくらせるためなのである。しかし、人間たちの数が激増して、自然の作物だけではもはや人間たちに食べさせるのに十分でなくなったと仮定してみよう。ついでにいえば、この仮定は、このような生活様式〔集団での生活〕に人類にとってどのような利点があるとでもいうのか、示してくれるだろう。さらに、次のように仮定してみよう。鍛冶場も作業所もないのに、未開人たちの手に天から耕作道具が降ってきたのだと。この人たちがみなもっていた、たえず働くことを死ぬほど嫌がる気持ちにうちかったのだと。自分たちの欲求をはるか以前から予見することを学んだのだと。大地をどのようにして耕作し、種を蒔き、木を植えたらよいのかを見抜いたのだと。小麦をひいて粉にし、ブドウを発酵させる技術を発見したのだと。いったいどのようにして、このようなことすべてを自ら学んだのかを理解することはできないのだから、神から教えられたに違いない。このような仮定をしたうえで、それでも、畑を耕作しようとして苦労するほど分別のない人間など、いったいいるものだろうか。最初にやってきた人間なり獣なりが、収穫物が自分にとって都合がよいと思うならば、畑は荒らされてしまうだろう。その労働の見返りが自分にとって必要であればあるほど、それだけいっそう確実に自分の手には入らないというのに、つらい労働に一生を捧げようと心を決めるなどということがあるだろうか。要するに、大地が人間たちの間で分割されていない限りは、すなわち、自然状態が解消されていない限りは、このような状況にある人間が大地を耕作するようになることが、いったいありうるだろうか。



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